1935年頃、池袋を中心に画家、彫刻家、詩人、音楽家などがあつまり、芸術区として大変盛り上がりました。
近所にアトリエ村があったことが大きな要因です。
もちろん、長谷川利行のようにアトリエ村に住まない人も集いました。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が街に出る
彼女のために、神経をつかへ
あまり太くもなく、細くもない
ありあわせの神経を
(「池袋モンパルナス」小熊秀雄1938年 Ⓡ小熊秀雄協会)
小熊秀雄は1938年8月30日「サンデー毎日」誌上でエッセー「池袋モンパルナス」を書き、昼はアトリエ村で絵を描き、夕方になると池袋の街に出て行くさまを上記の詩にうたい、このことが池袋モンパルナス名を多くの人に知らせることになったといわれています。
1940年には小熊秀雄や長谷川利行(はせかわとしゆき)が相次いで夭逝し、太平洋戦争もはじまり芸術家の応召や疎開がはじまり、アトリエ村も空襲にあい、池袋モンパルナスとよばれた地区は急速に消滅にむかいます。
戦後はアトリエ村に舞い戻った作家もいましたが、新たな前衛運動の中心にもなります。